《新聞・雑誌記事より》

野中 星w
【《仲原善忠と語る》   佐藤優の歴史人物対談J <週間金曜日2009.11.27> (777号)より抜粋編集】

〔&w〕
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野中 星
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☆彡nochiwさんのまち

かつて琉球王国は、薩摩藩と清への両属体制をとりながら、独立国家として独自の文化を維持していた。
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┃ 中国 と の 紐帯 の ┃
┃ 強調も組み立て可能 ┃
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【Q】
 琉球王国は、日本に帰属するとともに中国との冊封体制に組み入れられていました。沖縄と中国の関係はどう考えればよいですか。

【A】
 琉球王国の地位に関しては、さまざまな見方があります。私は、1952年に発表した「沖縄現代政治史」という論考において、琉球王国は日本の宗主権下にあり、薩摩(島津)が委任統治していたと解釈を示しました。
〈寛永11(1634)年8月4日に将軍家光から島津へ、「薩・隅・日・諸郡郡合六十万五千石此外琉球国十二万三千七百石事、全可有領知之状如件」という安堵状を出している。(右琉球国の中には大島を含んでいる)すなわち、島津は将軍からこの地方を与えられたということになる。
 琉球の位置は半独立国たる列藩並みでもなく、又純然たる島津の領地でもない。幕府の宗主権の下に島津が委任統治を行い、その内治は或る部分以外は自治に位したということになる。〉
 もっとも沖縄と中国との関係をより重視する人たちがいたことも事実です。いわゆる頑固党の人たちです。1870年代後半、日本政府は、沖縄に中国との関係を断ち切らせ、沖縄の行政制度を抜本的に変革するいわゆる琉球処分を行ないました。頑固党は琉球処分に抵抗します。このことについて、小中学生向けの読本『琉球の歴史』(1952〜1953年)でこう記しました。
〈政庁の役人及び貴族たちは、開化党と頑固党の二つにわかれています。
 開化党は政府の命令もきき、改革を行いながら、現状をつづけたいとの考えの人々です。政庁の役人、一般の士族、地方の村役人階級に開化党が多かったといわれます。頑固党は政庁の役人でない貴族・士族が多く、首里、久米村が中心です。
 しかし、開化党も頑固党も、何とかして、自分たちが沖縄の支配者でありたいとの考えはおなじです。この考えは、明治30年ごろまで、つづいています。
 頑固党は、次のようなことをいっています。
「われわれは、家柄がよいために、代々、領地をいただいてきたが、日本のようになると、ただ学識ある者だけが、官吏になり、われわれの家はおとろえ、われわれの子孫はうえ死する外はない」だから「政府の命令は、きくことはできない。」というのです。
 今なら、笑話にしかならない議論ですが、その時代には共鳴者が少なくありませんでした。
 家柄がよいという家は三百六十戸ぐらいで、王の近親とか、その子孫、あるいは三司官(引用者注、琉球王国行政の実質的最高責任者)の子孫とかいう家のことです。
 又、中国とのまじわりをやめるのは、「数百年来の信義に反する」から、不道徳だといい、これも又もっともらしくきこえるので共鳴者が少なくありませんでした。〉
 歴史は、過去の出来事のどれを拾い、つなぎ合わせていくかで、まったく別の物語を作りだすことができます。頑固党の視座に立って、沖縄と中国の紐帯(ちゆうたい)を強調する歴史を描くことも可能です。

仲原善忠

アクセスアップの革命


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