《新聞・雑誌記事より》

野中 星w
【 ザ・コラム      ┏━━━━━┓     ┃琉球王国が┃     ┃わからん!┃     ┗━━━━━┛      沖縄400年     <2009(平成21).10.15>  〔朝日新聞より〕】

〔&w〕
☆彡nochiwさんのまち

《一部編集》

 今年(2009年)は「薩摩の琉球入り400年」である。
 薩摩藩が軍勢3千人を率いて沖縄に侵攻したのが1609年。独立していた琉球王国は奄美を割譲し、幕藩体制のもとで薩摩の支配下に入った。
 なぜその時期だったのかは、もともと明の征服を目標にした秀吉の朝鮮出兵が遠因で、秀吉の命を受けて、薩摩は琉球に出兵の軍役を課した。琉球は軍費半分を差し出したが、そのころから琉球を属領と見るようになった。
 それで王国は滅びたのかと言えばそうではなく、琉球は以前と同じく中国にも朝貢使節を送る一方、江戸にも使節を送るようになった。中国、日本の両方に帰属しながら、王国の体面を保った。
 琉球は、統一の動きが出てから500年も続く王国だった。日本に編入されたのは1879年、明治政府が「琉球処分」を断行したときだ。王国は滅び、沖縄県が生まれた。今年(2009年)は、王国が滅びて130年の節目でもある。

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 2009年10月6日、沖縄県立博物館で「薩摩の琉球侵攻400年」を記念する特別展が始まった。その展示を見て驚かされた。
 薩摩の支配下に入ってから琉球は、徳川将軍や国王が代替りするたびに、薩摩藩主に伴われて江戸に使節団を派遣した。片道2千`、往復に1年をかける壮大な旅をテーマにした展示である。
 以前なら、琉球が中国風の装束を強制され、見せ物のように「ヤマト」の視線ににさらされた「屈辱の歴史」を強調していただろう。
 ところが今回の展示では、琉球使節団が、当時最先端の衣裳や音楽を携えて各地で歓迎されたことや、琉球側も日本から、多くの情報や文物を吸収したという「交流」の側面に光をあてている。
 「過酷な支配にあえいだ沖縄」という単純な図式ではなく、沖縄側も、王国の体裁を保ちながら巧みに外交力、文化力をみがいた、という新しい見方だ。
 「近世では、日中両方に帰属することはマイナスではなかった。江戸幕府は『お国柄』だとして琉球が中国に朝貢することを認め、そこから中国情報を吸収した。薩摩も琉球を従えることで幕藩内の地位を高め、むしろ朝貢を勧めている。琉球側も『中国カード』を使いながら巧みに王国を守った」
 そう語るのは、展示に協力した琉球大の豊見山和行教授だ。同じく琉球大で王国の歴史を長く研究してきた高良倉吉教授がいう。
 「軍事力などハードパワーを持たない琉球は、外交力を使って薩摩を対中運命共同体に引き入れ、利用した面もある。踊りや織物など、沖縄文化の多くも、薩摩支配下の270年で培われた」
 ソフトパワーで、日中二つの大国と巧みに渡り合った王国。そんな新たな琉球像だ。なぜ歴史が見直されるようになったのか。
 「戦後、米軍統治下に置かれた沖縄では、日本からの分離策をとる米軍に対し、祖国統一論に立って復帰運動を続けた。そんな中で、独立王国・琉球を研究することが、研究者の間でタブー視された面がある。今になってようやく、王国を客観的に振り返ることができるようになった」と、琉球大名誉教授の比屋根照夫氏はいう。

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