王政崩壊

1789年10月6日
国王ルイ16世一家は、ヴェルサイユ宮殿からルイ14世以来、150年間、放置され続けて荒れ果てたテュイルリー宮殿に移された。

連日、テュイルリー宮殿の窓の下には、市民が押し寄せて『国王万歳!』『王妃万歳!』『王太子万歳!』という叫び声に包まれていた。

民衆も国民議会もパリ市議会も無理矢理に王室一家をパリに連れて来た事を恥じて、国王自らがパリに来た事にしようとした。

また議会は王制廃止まで考えてはおらず、事の重大さに慌てて、30人の議員、パリ市参事会も表敬訪問を行って、バイイ市長も宮殿を訪れた。

議会も民衆も革命派も皆、なんとか国王への忠誠心を表そうと、出来るだけの事をしようとした。

前日の正午には、長年に渡って、放置されている間に勝手に住み着いた人々を宮殿から追い出し、体裁を整えて今後、テュイルリー宮殿が王宮となる、住環境整備の修復改装が始まった。




宮殿の庭に面した一部が王家の居室となって、1階は王妃マリー・アントワネットの為に謁見の間、寝室、化粧室、食堂、ビリヤード室、浴室、王妃の部屋から、国王と王太子ルイ・シャルルの部屋に通じる階段も設えられた。

2階は国王の謁見の間、寝室、子供達に1部屋ずつの寝室、王妹エリザベートの寝室、サロンが設えられた。

宮殿の設備が整うと、宮廷官吏、侍従、従僕ら奉公人も以前と同じように集められて、ヴェルサイユ宮と同じしきたりでテュイルリー宮殿での生活が始まった。

リュクサンブール宮殿には、王弟プロヴァンス伯爵夫妻、国王の叔母達が暮らして、夕食後には、一族と親しい友人が集った。

ヴェルサイユからパリに移ってから、国王は狩猟に出る事を止めて、王妃も劇場に出掛ける事を止めて、国王夫妻は、自らが捕虜のように振る舞って、滅多に外出する事はなくなった。

しかし、議会や民衆が国王と家族を歓迎していると態度で示しているにも関わらず、王室は『ヴェルサイユから無理矢理、パリに連れて来られた』という態度を見せた。

民衆と王室の間には、自然と距離が出来てしまい、民衆は自分達が王室に力を奮う事が出来ると認識していた。

しかし、国王も王妃も誇りを傷付けられた怒りから、頑なに被害者のように振る舞っていた。
そんな王妃の幸福は、ひたすら子供達へ愛情を注ぐ事だけだった。

そして、もう1つの幸福はフェルセン伯爵の存在で、彼はフランスに戻ってから、常に王家と共にあり、王妃の慰めになっていた。

フェルセンも同様に彼女の存在こそが、夫妻の幸福、また王妃の悲しみ、苦しみ、全てを受け止めて、愛で包み込んだ。

このようにフェルセンが王妃と過ごせたのには、ラファイエット将軍の存在があった。
テュイルリー宮殿の監視責任者でもあるラファイエットは、宮殿にフェルセンが自由に出入り出来るように心を配っていた。

王妃自身は、ラファイエットを信用してはいなかったが、ラファイエットは自分なりに王妃に忠誠を尽くしていた。



しかし、王妃は議会や民衆から、どんなに礼を尽くされても、決して『ヴェルサイユ行進』の出来事を忘れる事をしない。

ヴェルサイユ宮殿に乱入して来た暴徒らに生命の危険に晒されて、宮殿内を破壊略奪しながら『王妃の首を奪りに来た!』
『あの女の腹腸を引きずり出してやる!』
と、わめき立てた言葉と槍に首を突き刺されて、血を滴らせた犠牲となった2人の近衛隊士の光景を。

何より、オーストリア大公マリア・テレジアの娘である自分を侮辱した事を王妃は、嫌悪感と軽蔑を捨てる事が出来ず、この想像を絶するヴェルサイユ行進の出来事をメルシー伯爵に手紙で伝えいる。

そして、憲法制定の準備を議会が進める中で決定的な影響力を持っていたのが、立憲王政を支持していたミラボー伯爵だった。



ミラボーは、ルイ16世に革命を受け入れさせた上で手を結ぼうと考えていた。
そして、国王を動かす力がある王妃に謁見しようとする。

しかし、王妃は貴族でありながら、平民の味方をするミラボーを嫌って謁見には応じず、会おうとはしなかった。

王妃は、オーストリアの実兄ヨーゼフ2世やスペイン国王に対して、『ルイ16世の権威を回復する力を貸して欲しい』と頼んだ。
しかし、スペイン国王からは返事は貰えず、実兄からは『今は忍耐の時だ』と諭された。

孤立した国王夫妻は、仕方なくミラボーと手を結ぶ事にした。
ミラボーは、国王夫妻に忠誠を誓って、『今後、制定される憲法を国王にとって、有利なものとする』と約束して、実現を果たした。

更に国王夫妻に迫る危険や取るべき行動の進言も行った。

しかし、国王夫妻が信用したのはミラボーではなく、かつての宮内大臣のブルトゥイユ伯とフェルセン伯であった。

そして、フェルセンの進言と助言の下で国王夫妻は、密かに亡命を企てる。

ミラボーも亡命する事自体には反対ではなかた。

ただフェルセンと違う点は、『夜逃げではなく、フランス軍を援護に就けて、昼間、堂々と行うべき。
緒外国の軍隊を頼って、亡命してはならない』
と助言した。

しかし、王妃は革命が急速化する中で『このままパリに居るべきではない』と考えた。

そして、フェルセンは莫大な私財を投じて国王一家の逃亡計画に全力を濯ぐ。

6月20日
フェルセンの莫大な私財を投じた逃亡計画が実行された。

テュイルリー宮を脱出した後、馬換えをするフェルセンに国王は、以降の随行を拒否する。
フェルセンは『国王夫妻が無事に外国で落ち着かれたら訪ねる』という話し合いで去っていった。

その後、国王一家はヴァレンヌで捕まって、逃亡劇は僅か24時間で失敗に終わる。
そして、国王一家は民衆からの罵声を浴びながらパリに連れ戻される。

屈辱的な帰還の道中でも王妃は、フェルセンに思いを馳せていた。
《フェルセンが自分の事を酷く心配しないか…》
フェルセンの事のみを気掛かりに思っていた。
王妃の不安は、フェルセンが不安がっていると同じ事でもあった。

『まだ私は生きています。
しかし、貴方の事がとても気掛かりです。
私は貴方に手紙を差し上げねば、生きては行けないのです』


王妃には、フェルセンの愛情だけが残された。

その王妃の命を守るべき力をフェルセンは王妃に与える。

●列強諸国は、フランスの無政府状態に乗じて、何らかの利益を掴む時期の到来を待っている事

●国王の弟プロヴァンス伯とアルトワ伯は、密かに王位を狙っていてルイ16世が命を落とす事など、どうでも良いと思っている事

●王妃の実兄ヨーゼフ2世も妹の恐ろしい状況には、殆ど関心を持たずに王妃を危険に晒している事

●国王は、優柔不断で王妹エリザベートも国外の兄弟に操れている事

この状況下でも、フェルセンは王妃を救える者は自分ただ1人だけだと思っていた。

そして、王妃からフェルセン宛ての手紙には『金の指輪』が添えられていた。
指輪には『意気地なしよ、彼女を見捨つる者は』という文字が刻してある。

この指輪は、王妃の指の寸法に合わて、特別に作られた物で手紙を送る2日前まで、彼女の指に嵌められていた品であった。

そして、遂にフェルセンは意を決して、再び王妃を救出する為にテュイルリー宮殿を訪れる事を決心した。

しかし、フェルセンの思いは、余りに危険で自殺行為に等しいものだった。
何故なら、既に国民の間では『憎むべき王妃の恋人』という事だけで、フェルセンの首ほど手に入れたい物はなかったからである。

フェルセンからの手紙を受けて王妃は愕然とする。
彼女は、英雄的な犠牲をフェルセンに求める意思などなく、自分の命以上にフェルセンの命を大切にしたがっていた。

『現在の状態から、貴女を救い出す事が絶対に必要です』

フェルセンは、決して自分の気持ちを曲げずに譲らなかった。

1792年2月13日
午後17時半、変装したフェルセンは奇跡的に無事にパリに到着するとテュイルリー宮殿を訪れた。

※この訪問には、『公式報告』とフェルセンの『私的備忘録』の異なる記述がある。

●フェルセンは最初の夜、国王夫妻に引見された。(公式報告)

●王妃だけに迎えられて、王妃の居間で一夜を明かした。

そして、翌日の晩、訪問後、初めて国王は英雄的なフェルセンと対談する。

しかし、国王はフェルセンの提示した脱出計画を拒否する。

●計画実行は不可能である事

●国民議会において、パリに留まる事を公約した以上、裏切る事は許されない。
これらの理由からであった。

そして、それまで愛し合って来た王妃マリー・アントワネットとフェルセンの生きて、再び相まみえる事のない2人の今生の別れとなった。

ヴァレンヌ事件をきっかけに国王一家は、親国王派の国民からも見離されて、国民の気持ちも完全に国王一家から離れてしまった。

『国王がいなくても自分達は、生きて行ける』

既に民衆は、そう考えて王政は必要のないものだと思い始めていた。

そして、フランスはオーストリアに宣戦布告をする。

それを知った王妃は、フランスの戦術をオーストリアに通報し続けた。
これは裏切りではなく、フランスが負ける事で連合軍によって、開放される事を望んでいたからであった。

革命の中途半端な成果に納得できない民衆は、再び蜂起する。
そして、彼らは王権停止を要求して、民衆の蜂起は革命の大きな区切りとなって行く。

1792年8月5日
王室一家がヴェルサイユ宮殿から、テュイルリー宮殿に移って2年半が経ち、監視の下にありながらも、まだ穏やかな日々を過ごしていた。
そして、国王一家の側近は、ミサの為にテュイルリー宮殿の礼拝堂に集まっていた。
そこに国民衛兵隊が『もう国王などいらない!』と、声をあげ、国王の側近達は2度と国王夫妻の姿を見る事は無いであろうと思った。

宮殿の外では、革命派が分裂と対立を繰り返して、外国に亡命した王弟達は王位を狙っていた。

フランスはオーストリア・プロシア連合軍との戦争で国家の危機を迎えていて、この日のミサはテュイルリー宮殿での最後のミサとなった。

1792年8月9日
民衆が蜂起する事を予知して、国王はスイス人傭兵隊や国民衛兵隊にテュイルリー宮殿を警備させた。
そして夜、パリ全市に警鐘が鳴り響いた。

議会が『祖国の危機』を宣言して、連合軍の総司令官プラウン・シュヴァイク公爵が出した『国王に従う事』『テュイルリー宮殿を襲撃したらパリを全滅させる』とした宣言に民衆の怒りは頂点に達して爆発した。

俗にいう『8月10日革命』である。



1792年8月10日
前夜から、パリは危険をはらんだ静寂に包まれて、革命派の動きは表面からは見えないが、ジロンド派の党員達は民衆に蜂起を指示していた。

300人の武装した貴族、王党派の2000人以上の兵士、900人のスイス親衛兵連隊がテュイルリー宮殿を守護した。

前夜18時からは、騎兵隊と国民軍16部隊も加わった。

午前4時、国民軍司令官の勇敢ジャン・ガイヨ・ド・マンダ侯爵が革命コミューンの待つパリ市庁舎に召喚されて、2時間後に無残に暗殺された死体がセーヌ川に投げ込まれた。
そして、パリの民衆はテュイルリー宮殿に向かって進み始めた。

王妃は、毅然として戦う決意を固め、スイス親衛隊に酒を振舞い、兵士の士気を高めようとルイ16世に閲兵を行うよう促した。
しかし、この閲兵は逆効果になってしまう。

目の悪い国王がヨロヨロとした様子で庭園に現れて、小声で『噂では彼らがやって来ると…、我が問題は全ての良き市民の問題であり…、その…皆、勇敢に戦いますよね?…』と、呟くと国民軍から、国王を罵倒する言葉が発せられた。

その光景を2階の窓から見守る王妃は、絶望の中、覚悟を決めたように落ち着いていた。

市民と結託している国民軍の兵士と砲手は民衆と合流し始めて、7時半にカルーゼル広場に来ていると警報が届く。
知事レドレルは、数人の参事官と共に国王一家は国民議会に避難するよう告げに来た。

ルイ16世は、決断する事が出来ずに迷うと、『一刻の猶予も無い』というレドレルの言葉に王妃は、議会への避難を決心すると忠実なジャルジェ将軍『じきに帰って参りますよ』と声を掛けた。

そして、国王と王妃は子供二人を連れて、テュイルリー宮殿の直ぐ脇にある議場へ避難した。

議場には、一段高い場所に国王の玉座があり、国王は家族と一緒に議長席の後ろの速記者用の狭く天井の低い桟敷に退避して、18時間もの長い時間を過ごす。



テュイルリー宮殿では、暴徒化した民衆が内部を破壊、略奪を繰り返していた。
王宮の防御を止めるように国王が指示を出した時には、既に遅く、貴族とスイス親衛連兵隊に数多くの犠牲者が出ていた。
民衆達は犠牲者の首を槍に刺して、王宮から奪った王妃の宝石、手紙、銀器、装飾品などを議会に持ち込んで、国王一家の身柄引き渡しを要求した。

その間も王党派の将校や兵士が議会に逃げ込んで来たが、数名の兵士が引きずり出されて、無残に殺戮された。

暫くして、銃声が止むと捕虜となった軍隊が議会に連れて来られて、見世物にされた後にアベイ監獄へと送られて行った。



この日の犠牲者は、民衆と王党派の兵士と合わせて1000人に上った。

午前2時に開会した議会は延々と続いて、国王一家と側近達は、成す術もなく、審議を聞かされ、自分達の行く末が語られるのを聞くしかなかった。

王妃は、少しの水を飲むだけで、国王は平然と食事をとり、うたた寝まで始めた。

この日、議会は国王と家族、側近の前で王権停止と国民公会発足を提案して可決された。
そして、新しい革命自治体(コミューン)が結成された。
こうして、国王夫妻の目の前でブルボン王政は音を立てて崩壊した。
泣き続ける王妃とは対照的に国王は動じる事はなかった。

この8月10日革命の主役は、サンキュロット(※革命を前進させる主力となった「半ズボンを履かない人」の意味で、フランス革命での革命派の市民達)と義勇兵であった。



同時にそれを指導したジャコバン派の力が大きかった。
特に蜂起を扇動したダントンは、「8月10日の男」と言われて、一躍、脚光を浴び、翌日には司法大臣に任命された。
また、ダントンの派手な動きとは別にロベスピエールも着実に地歩を固め、国民公会の主役となっていく。

議会は、ルイ16世を国王として扱っていたが、民衆側が勝利した時に議会は、王権停止を求め、新しい憲法を制定するべく、議会を召集する決議を行った。

1792年8月13日
国王一家と側近は、10日に避難して以来、連日の臨席を余儀なくされた国民議会への出席を免れた。
国民に人気があった筈のルイ16世は、ヴァレンヌ逃亡の後、国民の信頼を失っていた。

前日の議会で国王一家を司法大臣官邸に移すよう提案されたが、そこは民家に面している事から、脱走しやすいという理由で、しかも周辺には兵士を配備して、通信は禁止するという厳しい措置で検事総長ルイ・ピエール・マニュエルがタンプル塔への移送を提案した。


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