ラ・モット伯爵夫人
(ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア)

1756年7月22日~1791年8月23日

「首飾り事件」の首謀者で詐欺師。

1756年7月22日
フランス旧王家ヴァロア家の末裔で父ジャック・ド・サン・レミ男爵の娘として誕生した。

ジャンヌが生まれた時には、父ジャック・ド・レミは、ルツとヴァロアの男爵でありながら完全に没落していた。
彼は、屋根の落ちた見た目にも崩れかけた城には住む気がなく、酪農場に住み、付き合う女は農民だけで結局、ジャンヌの母となる農民出の愛人と結婚した。

レミ男爵と結婚した女は、彼を徹底的に没落させて、彼が病に倒れると家から追い出した。
こうして、ジャンヌの父レミ男爵は、パリの貧しい病院ディユー(※現在はホテル)で生涯を終えた。

ジャンヌが8歳の時、母親も死去。
そしてフランス政府によって、領地は没収、貧困孤児となった。
その後は、妹マリー・アンと鴨の見張り番を嫌々ながらやって、物乞いをしながら暮らしていた。

そんなある日、ブランヴィリエ伯爵夫妻が自分の領地であるパシィ(※当時、パリ郊外の独立した村でパリっ子の良く訪れる保養地)へと向かって、ゆっくりと馬車を走らせていた。

その時、幼女を抱き抱えたジャンヌが馬車に近付き、「お願いです。2人のヴァロア家の血を引く孤児に幾らかの小銭を恵んで下さい」と恵を乞うた。

ブランヴィリエ伯爵夫人は、恵を乞うジャンヌの目に何か引き付けられたが、夫は反対した。
ブランヴィリエ伯爵夫人が馬車を止めさせると、ジャンヌは直ぐに興味深い話を始めた。

ブランヴィリエ伯爵夫人は、ジャンヌの話を聞き終えると事実であるなら、ジャンヌ姉妹を養女にして養育しようと考えて馬車に乗せた。

その後、ブランヴィリエ伯爵夫人は事実を調べ始め、周囲の人々から話を聞き、物乞いをしたジャンヌの住む教区の司祭に事情を聞き、司祭は信頼すべき書類を元にジャンヌの真実性を証明した。
また系図学者の協力を得て、ジャンヌ姉妹がヴァロアの出で有る事が公式に認証された。

ジャンヌは14歳まで女子教護院にいたが、王族出であるという意識が強かった。
時々、ブランヴィリエ伯爵夫人はジャンヌを自分の元に呼び寄せ慰めた。
しかしジャンヌは、領主館では奉公人のように思え益々、屈辱感は酷くなった。

ブランヴィリエ伯爵夫人は、ジャンヌ姉妹を良家の子女だけが入れるロンシャン修道院の寄宿女学校にジャンヌ姉妹を入学させた。

1776年、20歳になったジャンヌの不安は募るばかりで、何者も彼女の幼女時代の思い出を消し去る事はなく、彼女は常にヴァロア家の子孫が田舎道の埃をかぶりながら、物乞いをした事を理由に社会階級から脱落者層に入れられ、全ての社交界から敵の1人として扱われた。

「私は生まれ付き、手に負えない程の誇り高き性格の持ち主でマダム・ブランヴィリエの慈悲により、魅力的になっただけである」と自ら書き記している。

そしてブランヴィリエ伯爵夫人のおかげにより、ジャンヌ姉妹は年間800リーブル(※現在の金額にして約6億円以上)の恩典年金の受給できる環境が整えられた



22歳になったジャンヌは、ブランヴィリエ伯爵夫人の敷いた尼僧になるという軌道に乗る気になれず、ある日、妹と一緒にロンシャン修道院から逃げ出した。
理由は、先祖が持っていた領地を取り戻す為。

そして、ジャンヌ姉妹はパル・シェル・オーブにある町の極貧の宿屋に降り立った。

パルのファーストレディ=裁判長の妻シェルモン夫人は、ジャンヌ姉妹が密偵に追われているやも知れず、自分が引き取る義務が有ると思い自宅に招いた。
ジャンヌ姉妹の身なりは酷く、肥満体のシェルモン夫人は自分の服を貸し与えた。
しかし村の若者から、ジャンヌ姉妹がからかわれた事を知ると姉妹にピタリと合うように仕立て直してあげた。

しかしシェルモン夫人は、ジャンヌが家主のように振る舞う態度に戸惑いながらも1年間、居着いたジャンヌ姉妹の面倒をみた。
その1年間は、シェルモン夫人にとって人生最悪の期間であったと後に語った。

その1年の間にジャンヌは、若い貴族マルク・アントワーヌ・ニコラ・ド・ラ・モットと知りあった。
ニコラ・ド・ラ・モットは、近くのルネヴィルに駐在する警備大隊の将校であり、父はサン・ルイ団の騎士であった。

当時、パルの貴族社会は素人演劇が大人気でニコラはかなり名の通った有名役者でジャンヌと度々、共演して互いに熱弁を振るい、1780年6月6日に結婚した。

そして、シェルモン夫人は2人の結婚を機にジャンヌを家から追い出す事に成功した。

シェルモン夫人の家を追い出されたジャンヌ夫妻は、ルネヴィルへ辿り着き、ジャンヌは双子を出産したが直ぐに死亡した。
そんなジャンヌ夫妻は、借金とニコラの怪しげな商売で生活を続けていた。
当時、ニコラは勝手に伯爵の称号を利用して「ニコラ・ド・ラ・モット伯爵」と名乗り、シジャンヌは『ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア伯爵夫人』と名乗っていた。



ニコラは働く事を嫌悪して、自分を美男子と思っている傲慢な女好きの非常に図々しい意気地なしの紐男。
自分の屋敷に貴族や僧侶達を呼び集めては、ジャンヌを貸し出し、彼らの相手をさせて金を稼いでいた悪党であった。

1781年9月
ジャンヌ夫妻は、守護者でもあるブランヴィリエ伯爵夫人がルイ・ド・ロアン枢機卿の城に客としてサヴルンに滞在している事を耳にした。
すると、ジャンヌの中で密やかな声が湧き起こり、直ぐに荷物をまとめてサヴルンへと向かった。

25歳のジャンヌは、髪は栗色で波打ち、目は青く表情豊かで口は多少大きく、笑い声は心に響く魅惑的な女であった。
また同時代人によるとジャンヌのバストは少し発育不良ながらも、ジャンヌの最大の魅力は、その声と話し方にあったという。

「自然は彼女に危険な説得力という才能を与えた」と、後の「首飾り事件」を巡る裁判でのある人物の発言である。
また「モラルと国家の法からいうとマダム・ド・ラ・モットには、全く悪意はなく、いとも自然の成り行きであり、彼女は罪の意識を全く持っていない」と付け加えた。

1782年の夏にジャンヌは、ストラスブール司教領のサヴルンで初めてロアン枢機卿と出会った。



ロアン枢機卿の居住するヴェルン城は1779年に焼失したが、ロアンはあらゆる贅を尽くして再建し直して、王のように派手に暮らしていた。

ドイツやフランスから、ヴェルサイユの宮廷からさえも大勢の客人が訪れて、人で溢れかえる事が度々あって700台ものベッドが有ったという、このお伽の城にジャンヌが現れる。

ジャンヌの守護者ブランヴィリエ伯爵夫人は、ロアン枢機卿の好意に与えられるようにとジャンヌを紹介した。

ジャンヌの語る、それまでの人生歴にロアンは真剣に聞き入って、ジャンヌの話す全てを信じた。

ジャンヌは、自分の人生史を事実以上に誇張して話す術を心得ていて、その話を色々と書き残している。

またブランヴィリエ伯爵夫人の機縁によって、夫ニコラは王弟竜騎兵付大尉となった。

ロアン枢機卿は高貴な生まれを持ち、高職に就いていた人物だが、聖職者としての義務よりも華やかな暮らしを好み、生活の主要拠点はパリにあった。
その派手な生活態度と品行の悪さから、オーストリア・ハプスプルク大公マリア・テレジアから嫌われて、その母と同様にマリーアントワネットからも嫌われていた。

ジャンヌは、お伽のようなヴェルン城に永久に留まる訳にはいかず、傷付いた心持ちでルネヴィルへ戻った。
しかし、サヴルン城の優雅な暮らしを経験した後では一層、気に入らなくなり、激しい不安に駆られたジャンヌは、ある日、ルネヴィルを離れて、パリで幸運を掴もうと旅立った。

そんなジャンヌは、緊急に幸運を必要とした。
その理由は、唯一の守護者ブランヴィリエ伯爵夫人が亡くなったからであった。
かつて、ブランヴィリエ伯爵夫人が整えてくれた恩賞が定期的に入るだけだった。

1782年
古パリとマレイ地区の間のヌーブ・サン・ギルに一軒の家を借りた。
マレイ地区は、ヴァロアの中でも最高級住宅街の王族城館で現在でも尚、特別の地域になっている。

ジャンヌが自分の目録を達する為に必要としたのは、ただ1人でいいから宮廷の中で顔の利く人物を見つける事であった。
援護を受ける為の唯一の目標は、宮廷に気に入られる事だけで宮廷の愛願を得る事が絶対であった。

しかしジャンヌは自分の経験から、それが余り簡単でない事で悲観していた。
パリの家の他、ヴェルサイユにも宿泊所を持ち、放浪生活をするようになった。
この移動は、ジャンヌの債権者や金を貸す余地の有る人に宮廷に出入り出来るかの如く思わせる目的でもあった。

また、ジャンヌが熱望する絶大な権力の有る宮廷に入り込む隙間が見つかれば、直ぐに飛び込める様にそこで待機していた。

ある日、ジャンヌはヴェルサイユ宮の国王の妹の控えの間で気を失った。
ジャンヌは、意識を戻すと周りを取り囲んだ人達に「ヴァロア家の末裔なのに切り詰めた生活が衰弱の原因である」と明かした。

気の良いマダムは、ジャンヌの為に慈悲の給与の増額に奔走したがジャンヌは、そんな少額では物足りずにいた。

気絶がもたらした上々の効果に気を良くしたジャンヌは、国王の義理の妹アロア伯爵の控えの間で、もう1度、試してみたが効果はなかった。

そして、3度目には「鏡の回廊」で、しかも王妃マリーアントワネットが通り掛かったと同時に勇敢な気絶をしたフリをやって見せた。
しかし、マリーアントワネットのご機嫌取りをする人垣で王妃がジャンヌに気付く事さえなく、ジャンヌの目論みは失敗に終わった。

そんなジャンヌは、あらゆる手を試みたが1つだけしなかった事が就労だった。
ジャンヌの言い訳は、何百倍も真面目な貴族ですらも思い付かない事だった。
ジャンヌは、若い貴族の誰かが貧しくなると国王の威光で慈悲が与えられる事を計算に入れていた。

しかし、国王の目に入らない程、低落したジャンヌに残された可能性は、詐欺師で地位と権威の偽造と偽装であった。

そんなジャンヌには、宮廷でただ1人の召し使いしか知人がいなかった。
そして、ヴェルサイユに居る間中、部屋に閉じ込もって、鍵を掛け、宮廷に行ってるかの如く思わせた。
一説には、部屋代を支払う方法が無かった為、部屋を貸している女性の息子と一緒だったという人もいた。

またジャンヌは、ロアンを操っていたイタリア人のペテン師ジョゼッペ・バルサモ(俗にアレッサンドロ・カリオストロ伯爵)にも近づいた。



ロアンは、カリオストロ伯爵を熱狂的に師と仰いでいた男でもあった。
ロアンは、自分が宰相の地位に就けないのは、かつてマリーアントワネットに与えた悪い印象の為に王妃に恨まれているせいだと思い込んでいた。
そこでロアンはジャンヌを通じて、王妃に取り入る事で何とか事態の改善をしようと考えた。

夫ニコラの聯隊仲間のレトー・ド・ヴィレットは、30歳で外見も立派な綺麗な女文字を書く才能があった。
ヴィレットはジャンヌの秘書官でもあり、愛人でもあった。
ジャンヌはロアンを信用させる手段として、ヴィレットの筆写の技術を利用して、王妃の名前で偽手紙を何度も書かせた。

また、パレロワイヤルで娼婦をしていたマリー・ニコル・ルゲイ・デシニー(後のド・オリヴァ男爵夫人)をマリーアントワネットの替え玉に仕立てあげて、深夜、ヴェルサイユ庭園/ヴィーナスの繁みでロアンと会わせて信用させた。

見事なジャンヌの嘘と演出により、益々、ロアンは身も心も完全に騙されたまま、王妃の慈善事業への多額の寄付を行った。
その多額の寄付金は、全てジャンヌの手に渡り、借金を重ねていたジャンヌの生活が一変した。

ジャンヌは、ロアンが騙されている間に出来る限りの金を巻き上ようと目論んでいた。
そんな時、ジャンヌにとって思いがけないチャンスが舞い込込んで来た…。

1784年11月
王室御用達の宝石商シャルル・ベーマーとポール・パサンジュは、ジャンヌが『王妃の親しい友人』と聞いて訪ねて来た。

「高価な首飾りが売れなくて困っている」というベーマーの話を持ち込まれたジャンヌは、このチャンスを見逃す筈がなかった。


ベーマーとパサンジュ


ダイヤの首飾り(複製)

この首飾りは、ルイ15世の公式寵妃デュ・バリー夫人が国王にねだってベーマーに注文した品であった。

この首飾りは、大小647個のダイヤモンドで2800ct、金500kg相当の160万リーブル(約192億円)の豪華な品であった。
しかし、首飾りの完成を待たずにルイ15世が急逝。
デュ・バリー夫人はヴェルサイユから追放されて、巨額の借金と首飾りだけがベーマーの手元に残った。

困り果てたベーマーは、首飾りをヨーロッパ各国の王侯貴族、そして最終的に宝石好きのマリーアントワネットに売り込んだが断られた。
ベーマーは、巨額な値段の首飾りに買い手がつかずに破産寸前だった。

ジャンヌは、首飾りを王妃に売りたがっているベーマーの話を聞いて、巨額な首飾りを我が手に入れようと王妃との仲介依頼を引き受けた。

そしてジャンヌは、ロアンに対して偽造した王妃の便箋を使って、『首飾りの売り渡し保証人になって欲しい』
『代金は一時的なローンです。
王妃の私は、今のところ現金が足りません。
しかし自分の贅沢の為に夫には頼めません。
御恩は決して忘れません』という主旨の文面を書き記した。

しかし、大資産家を自負するロアンでさえ、驚愕するような巨額な値段に躊躇した。
保証人のサインをする段階になって、ロアンは自分が神聖な師と仰ぐカリオストロ伯爵に相談すると言い出した。
ロアンは、サインするには興奮し過ぎて、冷静さを失っていた。

しかし事態は、ジャンヌの望み通りに進展した。

ロアンから、相談を受けたカリオストロ伯爵は、その夜は非常に機嫌が良く、しかも占いも「吉」と出て、カリオストロ伯爵からの保証を受けたロアンは、躊躇う事なく4回払いのベーマーとの契約書にサインをした。
そして契約終了後、受け取った首飾りをジャンヌに委ねた。

こうしてジャンヌは、首飾りを騙し取ると即座に首飾りを解体、ニコラに国外で売りさばかせて、巨額な大金を手に入れた。
そして、ジャンヌがパル・シュル・オーブの豪邸に引っ越した時には、24台の馬車を必要とした。
しかし、大悪党になりきれなかったニコラは、後にジャンヌの元を去って姿を消した。



1785年8月15日
宝石商ベーマが再三の首飾りの代金請求に応じない事から、マリーアントワネット付きの女官長カンパン夫人に直談判した事で事件が露見した。
18日、ロアンがミサの直前に事件首謀者の一人として、ヴェルサイユ宮「鏡の間」で逮捕。
3日後には、ジャンヌをはじめ、事件関係者が逮捕された後、パリ最高法院で裁判が開かれた。

1786年5月31日
最終判決は16時間に渡って審議された。
首謀者とみなされたジャンヌは、一切の罪を負わされた。

●ジャンヌ=有罪。
鞭打ち刑と両肩に泥棒を意味するV字の焼き鏝刑後、女子牢獄サレペトリエール牢獄に投獄

●夫ニコラは国外逃亡中

●ロアン枢機卿=無罪。
(但し、半世紀後までロアン家には、宝石商からの賠償請求を受けた記録が残る)

●レトー=国外追放

●ニコルとカリオストロ伯爵=無罪


6月21日の早朝、投獄されていたコンシェルジュリー牢獄の庭にて、鞭打ち刑の後、泥棒を意味するV字の焼き鏝刑『Voleuse』(女性形の頭文字)を両肩に捺された後、2年間、劣悪な環境の女子牢獄サレペトリエール監獄に投獄。



ジャンヌは投獄から、6ヵ月後に脱獄。

脱獄には、反国王派のオルレアン公の協力と手引きがあり、イギリスに逃れたという説がある。

ロンドンに渡ってから、暴露本『回想録』を発表。
本の内容は■自分は首飾り事件の被害者であって、事件の責任は全て王妃マリーアントワネットである事。
■王妃はレズビアンで肉体関係を持っていた事。
など王妃への中傷を書き綴って世間を騒がせた。

国民は、ジャンヌに同情的になって益々、マリーアントワネットへの批判は高まって行った。

1791年8月23日
ロンドンのホテルの窓から謎の転落死。
王族スパイの報復を受けて、暗殺されたという説もある。
ジャコバンクラブの人々は、亡命中のジャンヌを革命裁判所に呼び寄せて、首飾り事件の再審議を考えていたものの、彼女の急死によって、それはなされなかった。

また、1844年に「ジャンヌ伯爵夫人」と呼ばれた女性が亡くなっているが、これが彼女その人であったとパリの社交界では噂された。

この首飾り事件は、マリーアントワネットへの中傷を加熱させるだけで、王妃の評判は地に落ち、ブルボン王朝が揺らいだ大事件となった。












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