首飾り事件
幻の首飾り(複製)

フランス犯罪史上に名高く残る『首飾り事件』は、王妃マリ−アントワネットの名前を利用して、王室をも巻き込んだ大スキャンダルな巨額詐欺事件である。



この首飾りは、事件に関与した人でさえ、首飾りの実物を見た者が少なく、誰の身にも付けられる事なく、短期間しか存在しない宿命にあった。


首飾りのデザイン画

当初、この首飾りはルイ15世が寵妃デュ・バリ−夫人にねだられて、宝石商のシャルル・ベーマーに注文した品だった。
ベ−マーが八方手を尽くして、最高級ダイヤを1粒ずつ探し求めて、ベーマーの相棒ポール・バッサンジュが丹念に研磨細工を施した、647個のダイヤモンド(2800ct)、金(500kg)相当の160万リーブル(約192億円)の豪華で莫大な値打ちの品であった。

しかし、首飾りの完成を待たずにルイ15世が急逝する。
デュ・バリ−夫人はヴェルサイユから追放されて、契約が立ち消えになった事で高値の首飾りだけがベ−マーの手元に残って、大打撃を受ける事になった。


ベーマーとパッサンジュ

高額な借金と買手のいなくなった首飾りを抱えて、急遽したベーマーは首飾りを各国の王侯貴族を相手に売りに渡り歩いたものの、その余りの巨額な値段に買い手がつかずに破産寸前だった。
そして、最終的に宝石好きのフランス王妃マリーアントワネットに話を持ち込んだ。

マリーアントワネットは、ヨ−ロッパで宝石を所有していた女王の中でも飛び抜けていた。
1770年4月21日の輿入れの持参品として、既に故郷ウィ−ンから莫大な数のダイヤの装身具を所有していた。
また、ルイ15世から亡き息子の嫁マリア・ヨゼファの品であったダイヤと真珠も譲り受けていた。
その品の中には、真珠の首飾りがあったが、真珠の最小の粒ですら大きいヘ−ゼルナッツの大きさであった。
これらの首飾りは、かつてルイ13世の妃アンナが使った品で、代々フランス王妃へ継承された形見の品であった。

1774年に王妃アントワネットは、ベ−マーから6個のダイヤのイヤリングを36万リ−ブルで購入している。
そして王妃は、ベ−マーの持参したダイヤの首飾りを見て、その輝きに目を奪われ心惹かれはしたが、この首飾りが敵対していたデュ・バリー夫人の為に作られた品であり、デザインも派手過ぎて好みでない事から、ダイヤ2個を自分の手持ちの物と取り替えさせて、代金40万リ−ブルを後に分割で支払った。
首飾りに興味を示したのは、王妃よりも国王ルイ16世の方だったが、『高額過ぎる』と王妃が断った。

ベ−マーが望みを賭けたのも無理はなく、宝石好きの王妃なら、この豪華な首飾りも買い上げてくれるだろうと思っていた分、当てが外れた。

王妃といえども、160万リ−ブルは大金であった。
折しもフランスとイングランドがアメリカ独立を巡って戦っており、王妃は宝石よりも多くの船が必要だと考えていた。

困り果てたベーマーは、宮廷で『ヴァロア王家の血筋を引き、王妃様とは親しい友人』と噂のある自称、「ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア」と称する伯爵夫人の元へと後に仲介依頼で訪れる。


ド・ラ・モット伯夫人

本来、ジャンヌは王妃に謁見して貰った事など1度もない。
ただ自分の身分を出世させる為の欲深い女。
ジャンヌは、1782年の夏にストラスブール司教領のサヴルンで初めて、ルイ=ルネ=エドゥアール・ド・ロアン枢機卿と出会った。


ルイ・ド・ロアン枢機卿

ロアン枢機卿の居住するヴェルン城は1779年に焼失したが、ロアンはあらゆる贅を尽くして再建し直して、王のように派手に暮らしていた。
ドイツやフランス、ヴェルサイユの宮廷からさえも大勢の客人が訪れて、人で溢れかえる事が度々あって700台ものベッドが有ったという。お伽のような城に客人として、ジャンヌの守護者ブランヴィリエ伯爵夫人が滞在中、ロアン枢機卿の好意に与えられるようにとブランヴィリ伯夫人がロアンにジャンヌを紹介した。

ジャンヌの語る、それまでの人生歴にロアンは真剣に聞き入って、ジャンヌの話す全てを信じた。
ジャンヌは、自分の人生史を事実以上に誇張して、話す術を心得ていて、その話を色々と書き残している。

ロアンは、フランス政界の実力者で宮廷司祭長でもあり、地位、権力、財産がフランスで並ぶ者が無い名家ストラスブールの出身。
28歳でアカデミー会員になる俊才で聖職に就いた。
しかし、聖職としての義務よりも女好きで華やかな生活を好む贅沢な浪費家で生活拠点はパリにあった。

当時、フランスは国家財政の破綻目前となり、財政改革が焦眉の急となっており、ロアンは財務総監の就任を狙っていた。
しかし、ウィーン宮廷の女帝 マリア・テレジアから品行の悪さから反感を持たれて以来、マリ−アントワネットからも毛嫌いされ続けて、10年以上が経過していた。

王妃から嫌われている理由は、他にもあった。
マリ−アントワネットが14歳でフランスへ輿入れした際、司祭代表で歓迎の挨拶を述べたのがロアンだった。
その後、貴族の中でもオーストリアとマリ−アントワネットに対して、反感を抱いている者が多くいる中、ロアン自身も一派に属して、マリーアントワネットに対する嫌悪感を発言していた所を聞かれた事で嫌われて以来、首相の地位に就く事が出来ずにいた。

ロアンは、王妃との関係が疎遠であり、従来の険悪関係の修復改善を果たす事で『財務総監への道も開ける』と考えていた。

このルイ・ド・ロアンの権力に目を付けたのがジャンヌだった。
ジャンヌは、ロアンが熱狂的に師と仰いでいでロアンを操っていたイタリア人詐欺師=ジョゼッペ・バルサモ(俗にアレッサンドロ・カリオストロ伯爵)にも近づいた。


カリオストロ伯爵

ロアンは宰相の地位に就けないのは、かつてマリーアントワネットに与えた悪印象の為に王妃から嫌われていると察していた。
そこで、ロアンはジャンヌを通じて、王妃に取り入る事で何とか事態の改善をしようと考えた。

ジャンヌは『王妃様とは親しいから、貴方の事は散々、褒めておきました。
あとは、自筆の詫び状を送りさえすれば、必ず王妃様の機嫌は治るでしょう』
と、ロアンを騙して信じ込ませた。

ロアン自身、野望に目がくらみ、冷静な判断が出来なくなっていて、ジャンヌに仲介役になって貰い、王妃宛てに書いた手紙をジャンヌに託した。

そして数日後、ジャンヌは手紙の返事を持ってロアンの元を訪れる。
ジャンヌはロアンを信用させる手段として、夫ラ・モットの聯隊仲間で愛人でもある30歳のレト−・ド・ヴィレットは、綺麗な女文字を書く才能を持ち、ヴィレットの筆写の技術を利用して、王妃の名前で偽手紙(ジャンヌが文案を練って偽造)を書かせた。
金で縁取りされた便箋にペン書きで『私は貴方の過ちをもう根には持っていません。
これまでの事は水に流して、旧交を温めましょう。
即座に謁見は出来ないが、段取りが出来次第、直ぐに知らせます』
とする内容。
以降、200通以上の手紙が交わされて、徐々に王妃と親密になって、ロアンの自信を深めさせるような内容になっていた。

しかし、数ヶ月が過ぎた頃、ロアンは手紙での王妃の言葉は温かく愛想が良いのに対して、宮廷で会った時には、言葉さえも掛けては貰えず、視線さえ合わせない態度に不満と疑念を口にするようになった。
そして、手紙だけではなく、『直接、王妃と会いたい』と、ジャンヌに持ち掛けた。

ロアンからの申し出にジャンヌは、『王妃様は、まだ貴方の事を公の席で認める訳にはいかないが、ヴェルサイユの庭園で真夜中に私的な謁見を賜るでしょう』と、ロアンの疑念を晴らす為に答えた。

ロアンは、既に夏の夜、王妃が庭園を散策する事が好きで噂の恋人 フェルセン伯爵と逢引しているという噂を耳にしていた事から、自分との謁見も信じ込んだ。

ジャンヌは、予めロアンを信用させる為に王妃の容姿に良く似たパレ・ロワイヤル
(王位を狙っていたオルレアン公フィリップ・エガリテの城館)の娼婦マリー・ニコル・ルゲイ・デシニー(後に偽名「ニコル・ドリヴァ男爵夫人」と称する)を王妃の替え玉に仕立て、ロアンを信用させる。

1784年8月11日
深夜、薄暗いヴェルサイユ庭園/ヴィーナスの茂みで王妃に成り済ましたニコルとロアンは会った。
偽王妃とも知らないロアンは狂喜し、王妃が個人的に謁見してくれた喜びと今後の恩寵(政治的にも情事においても)を暗示する出来事だと完全に信用した。
こうして益々、ロアンはジャンヌの巧みな嘘に騙されたまま、王妃への慈善事業として多額の寄付を行った。
その多額の寄付金は全てジャンヌの手に渡り、借金を重ね抱えていたジャンヌの生活が一変した。

ジャンヌは、ロアンを騙している間に出来る限りの金を巻き上ようと目論んでいた。
そんな時、ジャンヌにとって思いがけないチャンスが舞い込込んで来る…。

1784年11月
宝石商ベ−マーとバサンジュから、「高価な首飾りが売れなくて困っている」と話を持ち込まれて、王妃との仲介役を依頼されたジャンヌは、このチャンスを逃す筈がなかった。
ベーマーとロアンを騙して、巨額の首飾りを我が手に入れようと企て始める。

1785年1月
ジャンヌは、ロアンに偽造した王妃の便箋を使って、『首飾りの売り渡し保証人になって欲しい。
代金は一時的なローンです。
王妃の私は、今のところ現金が足りません。
しかし、高額な為に夫には頼めません。
御恩は決して忘れません』
という主旨の内容でロアンに対する信頼の印として、『その処置を全て貴方の手に委ねます』と記されていた。

ジャンヌから『王妃様は、高値の首飾りを欲しています。
しかし、国王陛下に内緒で購入する為に王妃様が捻出しなければならず、首飾りの代理購入は貴方にしか頼めないと仰っています』


王妃からの重大な任務を託された事に気を良くしたロアンは、完全に冷静さを失っていた。
興奮し過ぎて、王妃の為に首飾りの代理購入を引き受けたものの、大資産家のロアンでさえ、驚愕するような巨額な値段。
契約書の保証人のサインをする段階になって躊躇して、カリオストロ伯爵に相談すると言い出した。

後日、ロアンから相談を受けたカリオストロ伯爵は、非常に機嫌が良く占いも「吉」と出て、ジャンヌの望み通りに進展する。

1785年1月31日
ジャンヌの陰謀に騙されながらも、師と仰ぐカリオストロ伯爵からの保証を受けたロアンは、躊躇う事なく4回払いでベーマーとの契約書にサインをした。
ベーマーとの契約終了後、受け取った首飾りを疑う事なく、ジャンヌに渡してしまう。

こうしてジャンヌは、首飾りを騙し取ると即座に首飾りをバラバラに解体して、夫ニコラがロンドで売りさばいて巨額な大金を手に入れた。
その後、大金を手にいれたジャンヌ夫妻は、パル・シュル・オーブの豪邸へと引っ越した。
引っ越しの際には、24台の馬車を必要とした。
しかし、大悪党になりきれなかったニコラは、後にジャンヌの元を去って姿を消した。

1785年2月2日
ジャンヌに首飾りを渡した二日後、ロアンは、家人の将校に宮廷での昼食会に同伴させて、王妃がどんな首飾りをしているのかを報告するように命じた。

宝石商ベ−マーとバッサンジュも知人にこの役目を与えたという。

その翌日、ベーマーらはロアンを訪ねて、『何故、王妃が首飾りを着けていなかったのか?』と疑問に思い尋ねた。
ロアンは『持て余していた首飾りから、解放されたのだから、王妃に感謝しなさい』と論した。
ベ−マーとロアンは、首飾りの所有者が王妃であると信じて疑わなかった。

ジャンヌは、疑問に思っているベーマーとロアンに『王妃様は、首飾りをパリで着けようと思っているのでしょう』と言い張った。
時には、『代金が支払われてから』とも言った。

1785年5月末日
ロアンは、王妃からサヴェルンへ行く様にとの手紙を受け取った。
そしてジャンヌは、男装して事の重大性を示す為にロアンのいるサヴェルンに現れて、『王妃様が彼の帰りを待って拝謁するだろう』と伝えた。

1785年7月
1回目の支払日8月1日が近付いていた。

ロアンは心配そうに『何故、王妃は首飾りを着けないのか?』とジャンヌに聞いた。

ジャンヌは『首飾りが高過ぎると思っているからです』と答えた。
そして『もし宝石商が20万リ−ブル値引きしないなら、王妃様は返品すると言ってます
と、言うとベーマーは王妃の要求を承諾した。

ジャンヌとベ−マーのやり取りにロアンは、またもや納得して確信した。
そして、ベ−マーはロアンの言うがままに王妃への礼状を書いて、ロアンが作法通りに手を加えた。

1785年7月12日
ベ−マーがヴェルサイユ宮に出向いた。
国王が弟アルトワ伯爵の息子アンジュルム公の洗礼式の為に注文した品を王妃に届けると共に幾つかの装飾品を持参して来た。
この時が首飾りの支払い請求の出来るチャンスだった。

ベ−マーは、王妃に手紙を渡したものの、王妃が手紙を読み、説明を求める機会を掴む前に不運にも、宮廷では重要人物でもある財政大臣カロンヌが入室して来た。
ベ−マーは、深く御辞儀をして引き下がった。

王妃がベーマーから受け取った手紙を読んだのは後の事。
王妃は、手紙を首席侍女の カンパン夫人に渡して、この訳の分からない内容の手紙の謎を解いてくれるよう託した。
しかし、カンパン夫人もベーマーの手紙を読んで理解する事が出来ず、王妃は蝋燭の火で手紙を燃やして、カンパン夫人に『今度、彼が来たら追い返すように』と言い付けた。

ベ−マーの方は、王妃が手紙を受け取りながら、王妃からの返事が無い事で王妃は、首飾りの件は把握していると確信した。
こうして、王妃マリーアントワネットも知らぬ間に事件に巻き込まれて行った。

その後、再三の代金請求をするも、首飾りの代金支払いがされない事に業を煮やしたベーマーは、侍女のカンパン夫人に対し、『首飾りの代金が支払われていない事に驚いている』と告げた。

『王妃様が首飾りを注文した覚えも無ければ、首飾りなど受け取ってはいません。
貴方は詐欺に遭ったのです』


カンパン夫人から、宝石商ベーマーの用件を聞いた王妃は、この件の解明を求め、事件が発覚した。

1785年8月15日
ロアンが王室礼拝堂でミサを上げる前に国王から呼び出しを受けた。
ロアンは、ひれ伏しながら淡々と経緯説明をした後、契約書を提示した。

契約書の各項目の横には『承認』と記されて、『マリー・アントワネット・ド・フランス』と署名されていた。

しかし、王妃のサインは偽名であった。
実際、王妃が署名する時は、洗礼名しか書かない事は宮廷に出入りしている貴族ならば、誰もが知っている事実事項であった。

ロアンへ渡された書面は、偽造された物で署名も偽物だという事を国王が認めた。
そして、国王は『この事件は、王妃の顔に泥を塗る為に仕組まれたものだ』と公にした。

巻き込まれた王妃も激怒した。
『毛嫌いしているロアンから、宝石など買う訳もない。
ロアンが詐欺の被害者であろうとロアンの行為は、王家と私の名誉と地位に対する侮辱である。
ロアンは不敬罪を犯したのだ』
と強く国王に主張した。

国王の執務室から出たロアンは、『鏡の回廊』にて、驚く廷臣達の見守る中で逮捕されて、バスティーユ牢獄に投獄された。

1785年8月18日
ジャンヌとニコルが逮捕される。
この時、ジャンヌはカリオストロ伯爵を事件の首謀者として告発して、カリオストロ伯爵夫妻も逮捕された。
なおジャンヌの夫ラ・モットは、ロンドンに逃亡して逮捕されなかった。
こうして、事件に加担した関係者全員が逮捕された。

国王夫妻はパリ高等法院(最高司法機関)において、関係者全員の裁判を委ねた。

事件が発覚した事でフランス中の国民が王妃のスキャンダルに注目した。
既に国民の誰もが王妃の浪費癖を知っており、不満のはけ口を外国人の王妃へと向けた。

『ロアンは犠牲者であり、王妃がロアンの寵愛の見返りとして首飾りを贈らせた』

『ロアンを利用して、宝石を売り裁いた金を母国オーストリアに送金している』

『王妃はフランス国民の敵!』

『オーストリア女の赤字夫人を許すな!』


事件が発覚した事で宮廷の腐敗が明るみになって、完全に王室の信用は失われていた。

1786年5月22日
法廷で尋問が行われた。

1786年5月31日
16時間に渡って審議されて最終判決が下される。
判決は直ちに執行されて、上告は認められない。

●ニコルとカリオストロ伯爵夫妻=無罪

●レトー・ヴィレット=国外追放

●ルイ・ド・ロアン=無罪で懲戒免職無し(但し半世紀後までド・ロアン家には、宝石商からの賠償請求を受けた記録が残る)

首謀者ジャンヌの判決は、国王命令で保留となって差し控えられて、コンシェルジュリ−牢獄拘留後に指示を待つ事になった。
理由は、ジャンヌの判決によって、国民が暴動を起こす事を恐れての事だった。

一方の王妃は、ロアンの無罪判決を知ると怒りを震わせながら、国民がロアンの味方である事と自分が信用されていなかった国民心情を知った。
王妃は法廷ではなく国民によって、浪費と貪欲の判決を受け、王妃の敗北を決定付けた。

国王夫妻は判決結果を不服として、裁判官を解雇。
ロアンは、公職を制奪された上に一時的に国外と政界から追放された。
しかし、高等法院によって無罪となったロアンに対して、国王夫妻が罰を与えた事で国民と貴族達からの支持を失う事になった。

そして、ジャンヌ・ド・ラ・モット=有罪

鞭打ち刑と両肩に泥棒(voleuse)を意味するV字の焼き鏝刑。

1786年6月21日
早朝、牢獄の中庭で刑が執行された。
ジャンヌは四人の屈強な絞首刑執行人に取り押さえられて、もう二人の助手が脇に抱えて、ジャンヌを足場の階段に引っ張って行った。
ジャンヌは地団駄を踏み、看守に噛みつき、足蹴にして悪態をついた。

そしてジャンヌは、膝まづいて判決文を聞くように強いられた。
ジャンヌは鞭の音を聞いて叫んだ。
『ヴァロアの血をそのように扱うのか!』
叫び声は牢獄中に響き渡った。

鞭打ち烙き印押しなどの軽い刑罰は、普段は執行人サンソンの助手の仕事だが、ジャンヌは貴族だった為にサンソン自らが執行する。

後ろ手で縛られたジャンヌは、無実を主張して暴れ回って、助手に噛み付き、助手の手をすり抜け、庭のタイルの上で痙攣のように身をよじった。

サンソンは、ジャンヌの肩に(voleuse)の一文字だけを真っ赤に焼けた鉄の鏝で焼印を押した。
そして、もう一方の肩に焼印を押そうとすると鉄が溢れて、のたうち回るジャンヌの胸に落ちた。
ジャンヌは飛び起き、サンソンの肩に服の上から噛みついて、ジャンヌは卒倒した。


刑を受けるジャンヌ 

その後、ジャンヌは看護所に連れて行かれて囚人服を宛がわれて、耳から金のイヤリングを取り外された。
それを医者は12リ−ブルで買おうとした。
無関心に黙っていたジャンヌは、我に返って『何?、12リ−ブルですって、金だけでももっと価値があるわ』と言い放した。

その後、ジャンヌの個人所有の動産不動産すべてが国庫の為に競売に掛けられた。

そしてジャンヌは、劣悪な環境で知られる女子牢獄サルペトリエール監獄に2年間投獄される。
しかし、投獄6ヵ月後に脱獄。
脱獄の手引きをしたのは、反国王派のオルレアン公の協力わ得てロンドンに逃れたという説がある。

そしてジャンヌは、ロンドンに渡るとオルレアン公の支援を受けながら、暴露本『回想録』を発表して世間を驚かせた。

本の内容は、首飾り事件の主犯に駆り立てられたが、実際は被害者であって、事件の責任は全て王妃マリ−・アントワネットにある事。
王妃はレズビアンで肉体関係を迫られて同性愛関係であった事。


これら、マリ−・アントワネットへの中傷と非難を書き綴って、王妃を憎む国民からの同情心を得る事が出来た。
このジャンヌの執筆した『回想録』で益々、王妃への批判は高まっていった。

1791年8月23日
35歳のジャンヌがロンドンのホテルの窓から謎の転落死を遂げた。
王族スパイの報復を受けて、暗殺されたという別説もある。

この首飾り事件は、マリ−・アントワネットへの中傷を加熱させるだけで、王妃の評判は地に落ち、腐敗した宮廷模様が白日の下に晒され、ブルボン王朝が揺らいだ大事件となった。






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